今回のインタビューは、「きまぐれオレンジ☆ロード」でおなじみのまつもと泉先生です。大きな病を克服されつつ現在は少しづつ活動を初めていらっしゃいます。

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 高校卒業後、ロックミュージシャンを目指して上京する。パートはドラ  ムス。無類のロック好きで、シンガーソングライターの杉真理、ジェネシス、TOTOの大ファンである。
しかし、楽譜が読めなかったこともあってミュージシャンは断念し、デザイン専門学校に入学。
専門学校在学中、高校時代の友人と2人で漫画作品を描き、いくつかの出版社に“持ち込み”をした結果、集英社「週刊少年ジャンプ」編集部の高橋俊昌(初代担当編集者)に認められ、本格的にデビューへの道を歩み出す。実は1980年代当初、硬派・劇画・スポーツ・ギャグを主軸としていたジャンプでは、売り上げの減少を食い止めるために他誌で人気を博していたラブコメと美少女キャラの要素を取り入れる方向で模索していた。ちょうどその路線に合致するまつもとの絵柄を気に入り担当となった高橋とともに、その後は連載企画を練って打ち合わせを続けつつ、原稿が落ちた『ストップ!! ひばりくん!』(江口寿史)の穴埋め短編漫画や懸賞ページのイラストなどを描いていたが、友人は連載デビューまでの年間のギャラが数万円という経済状況に耐えきれず脱落。以降はひとりで活動を続ける。1984年から「きまぐれオレンジ☆ロード」の連載を開始。瞬く間に人気作品となる。ちば拓や桂正和とともにジャンプでのラブコメ、美少女路線を開拓。読者アンケートでは10代を中心に男女共にバランスの良い人気を集めた。

まつもと泉(1958年10月13日生まれ) 出典:Wikipedia

 

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荻野

泉先生、ご無沙汰しておりますがお体の方はだいぶよろしいのですか?

泉先生

おかげさまでだいぶ良くなってきましたので大丈夫ですよ。

荻野

そうですか、それであればよかったです。早速ですが、色々な雑誌では語られているでしょうが子供の頃からデビュー当時の事を少しお伺いしても良いですか?

泉先生

はい、私は小学生の頃は漫画がすきで一生懸命描いていました。しかし中学になると音楽に目覚めました。ドラムをたたいているときが一番の幸せに感じられる時間なんです。これで、飯を食べていけたらいいなと仲間とバンドを組んでプロになろうと頑張っていましたね。
あるレコード会社からの誘いの声もあったのですが、やはり仲間とやるというのは共通の音楽があっても他人が集まるわけですから色々なことがありまして丁度、デビューの話があったときに仲間が外れたりとタイミングがあわず、プロになるタイミングをはずしてしまいました。

荻野

では、その仲間が外れていなければ音楽で食べていたかもしれないんですね?

泉先生

食べられるようになったかどうかは分かりませんが、そのチャンスを逃したというのは事実ですね。

荻野

でも、結果論ですがそのとき音楽に進んでいたら「きまぐれオレンジ☆ロード」も生まれていなかったわけですから良かったということですよね。

泉先生

確かにそうかもしれませんね。笑

荻野

でも、音楽からいきなり漫画家の世界というのも急な展開ですね。

泉先生

子供の頃から漫画は好きで描いていましたので、バンドを辞めるときも他のメンバーには「漫画家」になるといって抜けさせてもらいました。ですので、2番目に好きなことを職業にしたというところでしょうかね。

荻野

なるほど、好きなことの1番、2番を職業にできるなんて幸せですよね。

泉先生

そうかもしれませんね。そこから連載できる漫画をかきあげて順番に出版社に持ち込みました。最初に持ち込んだ出版社からある部分を褒められて「これはいけるんじゃないか?」と勘違いして色々な出版社をあたりました。けんもほろろに打ち砕かれた出版社もありましたが、そこそこの評価だったので当時、一番敷居の高かった「週刊少年ジャンプ:集英社」に最後に思い切って原稿を持ち込みました。そこで、出会ったのが同じ年の新人の編集者・高橋さんだったんです。彼との出会いが私の漫画家人生のスタートだったんです。彼のおかげで漫画家のアシスタントの仕事ももらえるようにもなり、そしてデビューまでたどり着くことができましたから・・・。実はその高橋さんは後の編集長にまでなって活躍していたんですが、44歳で若くして心筋梗塞でなくなったのが本当に残念です。

荻野

その高橋さんに出会ってなかったら今の泉先生も無かったくらいの恩人という事ですね。年代も一緒で漫画の感性、波長が合ったということなのでしょうね。
「きまぐれオレンジ☆ロード」の連載が始まったにはいくつのときだったんですか?

泉先生

そうだと思います。連載が始まったのは1984年からですかね、そこからさらに忙しくなりました。(笑い)丁度各出版社がこぞってラブ・コメ路線を広げようとしていたタイミングだったのでたまたま時代背景にあったということでしょうかね。伝説の100階段(最初の出会いのシーン)は編集者の方からの意見で書きかえました。私が当初考えていたシーンとは違うんですがね。やはり、チームで一緒に作品というのは作り上げていくということなんだと思いましたね。そのシーンがやはり後々、語り継がれていますからね。

オレンジロード

荻野

泉先生の尊敬する先生はどなたですか?

泉先生

沢山いるのですが、一番尊敬にあたるのは「永井豪先生」ですね、ラブコメ+科学、宇宙観は私にとっては衝撃的でした。その当時にはこの組み合わせで書かれている漫画家の先生はいませんでしたから私にとっては一番影響を与えてくれた偉大なる先生です。

荻野

そうですか、漫画家人生はそこからトントン拍子だったんですか?

泉先生

そうですね、病にかかるまではそうだったですね。私の病は病状がわからず、長い期間どこの病院に行っても明確な治療を施してもらえず、「精神安定剤」「精神科」「歯の矯正」など様々な病院と処方にかかりました。無駄なお金と高い処方代を払いましたが実は全て無駄な処方だったんです。前例も少ない「脳脊髄液減少症」という病気というのが2004年になってやっとわかりました。子供の頃の交通事故が原因だったということもその時に解りました。そこから明確な病状がわかり本格的な治療にかかり今に至っています。

荻野

それは大変だったですね。その病気が不明な頃は仕事にも集中できずにどんな状態だったんですか?

泉先生

今だから話せますが、「ゲームオタク」でした。引きこもりがちになり、薬をのめば気分がわるくなるし、入院していたときも薬を飲むと余計に気分がすぐれなくなるので飲んだふりをして看護士に怒られていました。処方が違っていたのですから当然ですよね。
それで、好きなゲームをしているときの方が気分がよくなり、元気になり、熱中できていたんですね。処方されていた薬を飲まなかったからなんですよ。笑い
分からないかもしれませんが、ファイナルファンタジー10からすべてやりつくしました。
病気が明確になってからはゲームオタクを卒業してやっと前向きに講演や出筆活動を開始し始めました。
私のかかった病気の事を知らないで亡くなっていった方々も数多くいるわけで「漫画の力で病気のことを伝えたい」と考えています。

荻野

是非、我々が協力できることがあればお手伝いしますので、実行してください。
あまり、時間をとらせては申し訳ないので今後の活動について少しお話を聞かせてください。

泉先生

丁度、40歳になる前に1ヶ月ほど伊豆で次の漫画の企画のための歴史調査をハードワークで行っていたときに病が重くなりまして、頓挫してしまっている企画があります。それを完成させたいですね。その他、病気のおかげでやりたくてもできなかったことが沢山在るので一つ一つクリアしていきたいと思っています。

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荻野

ありがとうございます。お体に無理のない様頑張ってください。さらに、相談させて頂いている「ライン・スタンプ」の企画の話ですが、進めてゆきましょう!。

泉先生

はい、大丈夫です。宜しくお願いします!。

荻野

本日は、ありがとうございました。